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東紀州にゆかりの英傑キャラクター東紀州八英傑

更新日時:

熊野古道を行き交う旅人の安全を祈り新たな出逢いを求めて、東紀州に関わる伝説の英傑がキャラクターとして活躍しています。

東紀州八英傑

種まき権兵衛、神武天皇、徐福、大馬新左衛門、多娥丸、イザナミノミコト、マン、武蔵坊弁慶の東紀州八英傑の各キャラクターと楽しみ方をご紹介します!

東紀州八英傑の紹介

種まき権兵衛

雨にも風にもカラスにも負けず…。穏やかで優しい性格ながら芯が強く、決めたことは最後までやり遂げる有言実行の人。村のみんなを和ませるムードメーカー的な側面も。
種まき権兵衛

慣れない作業のため、畑を耕し種をまいてはカラスや小鳥に種をついばまれ、人々から笑われていましたが、あきらめずに努力を重ね、やがて村一番の農家になりました。
また、権兵衛は鉄砲の名手としても知られ、田畑を荒らす獣を撃っては村人たちに喜ばれていました。
ある時、馬越峠付近で大蛇が人を襲っていることを知った権兵衛は、退治を決意します。山に入りシダの葉に身を潜め、待ち構えていたその時、突如大口を開けた大蛇が権兵衛に向かって襲い掛かってきました。
すかさずズンベラ石に念じて身を隠し、大蛇の急所へ「ズドン」と3発、弾丸を打ち込みます。見事に退治したものの、大蛇の毒を浴びた権兵衛は、村人の看病の甲斐なく亡くなってしまいます。
しかし、村人たちのために戦った権兵衛は村の英雄として語り継がれ、権兵衛を偲ぶ「種まき権兵衛祭り」が今もなお、紀北町便ノ山地区にある菩提寺・宝泉寺で行われています。
神武天皇

日向(現在の宮崎県)から東征し、各地で勇敢に戦い熊野の地に降り立つ。八咫烏(やたがらす)に導かれ、数々の苦難を乗り越え、初代天皇となる。
神武天皇

のちに初代天皇・神武天皇となるカムヤマトイワレビコと3人の兄は、日本を統治するのに最適な地を求め、日向(現在の宮崎県)から東に向けて出発します。難波碕(現在の大阪府)から上陸し、大和(現在の奈良県橿原市)へ向かうものの激しい襲撃に合い、1人の兄を失います。今度は、船で紀伊半島を回り熊野からの上陸を目指すものの、熊野灘で嵐に見舞われ、さらに2人の兄を失ってしまいます。カムヤマトイワレビコは、熊野の荒坂の津(現在の熊野市二木島町)にある楯ヶ崎より上陸し、ヤタガラスに導かれ、幾多の困難を乗り越え大和に入り、初代天皇・神武天皇になったと伝えられています。命を落とした二人の兄を祀っている阿古師神社・室古神社間を関船で競争する「二木島祭」は、熊野灘で嵐に遭った一行を、住民が船で救出に向かった様子が起源と伝えられ、2010年まで受け継がれていました。
徐福

あらゆる学問や術に長け、好奇心旺盛な性格を持つ。不老不死の仙薬を求め、今も熊野の何処かで探索と研究を続けている。年齢不詳。近頃は、新しく覚えた「珈琲」にハマっている。
徐福

徐福は、2200年以上前に実在したとされ、不老不死を実現するための呪術や祈祷・薬剤の調合にたけ、医薬・天文・占術等にも通じた秦(中国)の学者です。中国で初めて天下を統一した秦の始皇帝から、不老不死の仙薬を手に入れるよう命じられた徐福は、数千人の若い男女と農産物、幾多の農工具類を積んだ数十隻の船を率い、仙薬を求める航海に出発しました。やがて熊野市波田須町の海岸に到来し、この地に医薬学や造船、捕鯨、製鉄、農業、窯業など、当時の中国の最先端技術を伝えたとされています。波田須の地名は、古く「秦住」と記され、また中国秦時代の古貨幣「半両銭」や徐福が焼いたとされる陶器が出土しているほか、徐福到来の証が数多く残っています。波田須には、徐福が求めた仙薬とされる「天台烏薬(てんだいうやく)」が今も茂っています。
大馬新左衛門

敏腕スナイパーとして名を馳せるも、実は極度のド近眼&お化け嫌い。普段は冷静沈着だが、暗闇が苦手で少しの物音でもドキッとしてしまう。仕事は定刻でキチッと帰るタイプ。
大馬新左衛門

江戸時代、鉄砲の名人として知られた大馬新左衛門はある朝、当時の生活道である松本峠を通って北へ向かいました。用事を済ませ、帰る頃にはあたりはすっかり暗くなっていました。帰りを急いで再度松本峠を通ったところ、月明かりの下に得体のしれない大きな影が立ちはだかりました。新左衛門は驚き、「これは妖怪に違いない」と鉄砲を構えます。「妖怪が化けるときは必ず頭を下にする」―――新左衛門は足元に狙いを定め、鉄砲を撃ち放つと、これが見事に命中しました。しかし、近づいてよく見ると、それは妖怪ではなく新左衛門が峠を通った後、昼間に建てられたお地蔵様でした。松本峠に静かにたたずむお地蔵様の足元には、今もなおその時の鉄砲の弾痕が残っています。
多娥丸

鬼ヶ城を居城にする鬼の大将。敵対する相手には文字通り鬼のように恐ろしい存在だが、仲間だとみなした相手には面倒見が良く優しい兄貴肌を併せ持つ。南紀みかんが大好物。
多娥丸

平安時代初期、桓武天皇の頃、政権は自分たちに従わない力のある者を脅威として「鬼」と呼び、熊野の海賊・多娥丸も鬼であるとして、坂上田村麻呂に多娥丸征伐の命が下りました。そして、多娥丸の隠れ家である鬼ヶ城が、天人のお告げにより坂上田村麻呂に明かされてしまいます。軍勢は攻め入ろうにも陸からは岩が厳しくそびえ立ち、磯からは強い波が打ち付け近寄ることすらできません。そんな時、沖にある島「魔見ヶ島」に童子があらわれ、面白おかしく手足を上げて歌い踊るため、軍勢もつられて大騒ぎする事態となりました。鬼ヶ城の硬い岩戸の奥にいた多娥丸が、外の様子をうかがおうと顔を出した瞬間、坂上田村麻呂の矢が放たれ、多娥丸に命中し討たれてしまいました。多娥丸の亡骸は大馬神社(熊野市井戸町)に埋葬され、この地に多く残る「鬼」にまつわる伝説の一つとして、世界遺産鬼ヶ城の名とともに今なお語り継がれています。
イザナミノミコト

国産み・神産みをなした母なる神。季節の花々を愛し、熊野の地から今も国を見守っている。例大祭『お綱かけ神事』は、日本書紀の時代から今も花の窟で続いている。
イザナミノミコト

イザナミノミコトは、イザナギノミコトとともに国を生むとともに、アマテラスオオミカミやスサノオノミコトなど、八百万の神を生み神々の母と称されています。イザナミノミコトは、火の神カグツチノミコトを生んだことで身体に大火傷を負い、そのまま亡くなってしまいます。イザナギノミコトは最愛の妻の死を嘆き悲しみ、その亡骸を熊野の有馬村(現在の熊野市有馬町)に葬ったとされており、世界遺産花の窟がイザナミノミコトの御陵であると伝えられています。1400年前に編纂された日本書紀には、有馬村の村人が季節の花を捧げ、歌い舞うことでイザナミノミコトの御魂を鎮めていたと記載されており、その伝承が毎年2月2日と10月2日に世界遺産花の窟で行われる「お綱かけ神事」として今もなお残されています。「お綱かけ神事」とは、日本一長いといわれる約170mの大綱を、ご神体である高さ45mの巨岩の頂上から七里御浜まで引いた後、境内にめぐらし、五穀豊穣を祈願する神事です。
大綱には、三旒の幡形と、種々の季節の花や扇子等を結びつけたものが吊るされています。
マン

恩返しをするために山からやってきた、心優しいオオカミの子。主人の弥九郎と一緒に山を歩くのが大好き。大きくなったら立派に猟のお手伝いをすることを夢見ている。
マン

ある時、坂本村(現在の御浜町阪本地区)の峰弥九郎という猟師の元に、一匹のかわいい子犬がやってきました。弥九郎は「半年前に山で助けた狼が、お礼に子をくれたのだ」と喜び、子犬にマンと名付けて大切に育てます。大きくなると狩りに連れて行き、弥九郎も驚くほど素晴らしい猟犬になり、あたり一帯でその名が知れ渡るようになりました。しかしある夜、弥九郎を訪ねてきた叔母がこう告げます。「マンは狼の子という噂があるが本当か」「狼は、生き物を千匹殺すと飼い主までも襲うという。狩りをしているから、そろそろ千匹になるのではないか」―――外でこの話を聞いていたマンは悲しみ、夜空に向かって遠吠えをすると、それ以降弥九郎の元へ姿を現すことはありませんでした。御浜町が発祥であるとされる、強い忠誠心とすぐれた運動能力を持つ紀州犬は、そんなマンの血を引いていると言われています。
武蔵坊弁慶

子どもながらに大人顔負けの腕っぷしで、日々「戦ごっこ」に明け暮れるヤンチャなガキ大将。「鬼若」の名で呼ばれ、周囲から一目置かれる反面、実はかなりの寂しがり屋。
弁慶

熊野別当(熊野三山の統括を行う役職)を父に持つ弁慶は、紀宝町鮒田地区で生まれたと伝えられています。生まれた時にはすでに3歳ほどの見た目で、髪は長く歯も生えそろっていたことから、父は鬼の子として捨てようとしますが、かわいそうに思った叔母に引き取られ「鬼若」と名付けて育てられました。その後弁慶は、僧侶になるため比叡山に預けられましたが、その立派な体格から力勝負を好んで行うようになり、のちに乱暴が過ぎ比叡山を追い出されます。ある時、弁慶は力試しに太刀を1000本奪おうと決意し武士を次々に襲い、ついに999本になりました。最後の1本を奪うため待ち構えていたところに現れたのが牛若丸(源義経)で、弁慶は襲撃するも返り討ちにあい、負けを認めその後は義経の家来として生涯忠誠を貫きました。最期の戦いでは、義経を守る最期の盾として無数の矢を受けても仁王立ちのままであったと言われています。弁慶が生まれた屋敷の庭に生えていたと伝えられている大きな楠跡には、石碑が建てられており、弁慶産屋楠跡として紀宝町鮒田地区で今も親しまれています。

東紀州八英傑の楽しみ方

AR

八英傑は東紀州の各地域を訪れていただいたらARでスマホの画面に映し出すとができます。

ARスポットマップ
ARマップ

イラスト利用

キャラクターイラストは、個人、法人問わずご利用いただけます。
ご利用の際は、利用ガイドラインを遵守してください。

イザナミノミコトのミニキャラを響たこちさんが描いてくれましたので紹介します!
八英傑イザナミ
令和7年5月に開催された木本高校漫画研究部OG展でも展示していただきました。木本高校OG展

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