東紀州が誇る伝統工芸品・特産品
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尾鷲市
熊野市
御浜町
東紀州には古くからその土地に根付く伝統的な工芸品がいくつかあります。
職人が仕上げる工芸の世界ってハードルが高そうとか、今の暮らしには馴染まないかも、なんて思っていませんか。
その歴史や携わる人の苦労や熱い想いを知れば、長く続けられてきた理由や魅力が伝わるはず。
生活の中で育まれ、受け継がれてきた品々を見てみましょう。
▼目次
1 尾鷲わっぱ[尾鷲市]市無形文化財 三重県指定伝統工芸品
2 那智黒石[熊野市]三重県指定伝統工芸品
3 市木木綿[御浜町]三重県指定伝統工芸品
1尾鷲わっぱ[尾鷲市]市無形文化財 三重県指定伝統工芸品
美しい木目や漆のツヤの仕上がりに風格を感じる「尾鷲わっぱ」。
材質のよさが全国に知られる「尾鷲ヒノキ」が使われ、木の持つ調湿作用で水分が保たれるため、冷めたご飯でもふっくらおいしいと評判の弁当箱です。
使い続けるうちに漆特有のツヤも増し、愛着も湧いてきます。海山の恵み豊かな尾鷲で、古くから山師や漁師に愛されてきました。
わっぱの起源ははっきりとしていませんが、江戸時代初期から林業に携わる人が急増、山仕事の食器として木製の曲げ物(わっぱ)が使用されていたようです。
同じころ、海ではカツオ漁が盛ん、漁師も船上でわっぱを愛用したと伝わっています。
尾鷲わっぱは45の行程から成り立ち、およそ2ヵ月掛けて完成します。
現在、唯一の製造元が、尾鷲市向井にある「ぬし熊」は、明治20年に創業。
初代以来、頑なに伝統を守り、よりよい品を作り続けています。
ぬし熊の伝統的技術保持者として、三代目・昭次さんが昭和52年に、四代目の効史さんも平成25年、尾鷲市の無形文化財に指定されました。
まずは、良質な材を選んで、板にして、かんなで仕上げて湯通し。
それを曲げて、陰干しし、輪にしたヒノキにコテで小さな穴を開け、桜の皮で継ぎ目を綴じ合わせていきます。
膨張するとすぐに穴が塞いでしまうので、雨など湿度の高い日には難義する作業なんだとか!
時間が経つと容器としての締まりが出ます。
それから丸い底板をはめて竹釘で取り付け、仕上げには生漆を5回以上塗り重ね。
天然素材のみを使い、こだわりをもって一つひとつ丁寧に作られています。
偽りのない素材の品は、贈り物にも喜ばれます。
また木目が透ける摺り漆塗のタイプは、電子レンジにも対応できる優れもの!
弁当箱としての最大のメリットは、ヒノキとお米の相性。
ご飯の水分をヒノキが程よく吸収するので、べとつかず、ヒノキの殺菌効果で傷みにくいため、お櫃としても抜群。
使うほどに味わい深く、丈夫で長持ち。漆を塗り替えれば、孫の代まで使うこともできる代物です。
2那智黒石[熊野市]三重県指定伝統工芸品
平安時代から存在が知られていたという那智黒石は、磨くほどに美しい艶の出る石。
紀州観光の土産物として重宝され、那智黒石の里・神川町には伝統産業を守り続ける人々がいます。
「那智」と名付くので、那智山のあるお隣、和歌山県産と間違えられることも多いのですが、山深い熊野市神川町が原産地で、採石しているのは全国でここだけ!
明治時代中期から採石が盛んになり、昭和50年ごろの最盛期には、那智黒石の製造・販売所が神川町には26軒ありましたが、今では数軒のみ。
長くまちの大切な産業を支えています。
碁石の黒石や硯の原料として知られていますが、床置石や装飾品など那智黒石のキメ細かさと漆黒の持つ気品は、実用品として、また贈答品や記念品にも喜ばれています。
まずは採石場から運ばれてきた原石を割り、それぞれの商品に近い形までサイズを調整。
碁石は板を機械で直径約2.5センチの大きさにドリル機を使って丸く刳りぬき、厚さによって選別し、磨きます。
硯を仕上げる工程では、手彫りのノミの刃には石彫用の特殊な合金を使用し、体全体を使って、力を込めて彫らないといけません。
まさに職人技!石の目があるため、彫るというより、擦るようにノミを当て、仕上げにサンドペーパーで丁寧に磨いていくと、見る見る黒さが増していきます。
見た目の美しさと滑らかさに加え、硯の磨り心地をよくすることにも気を遣います。
石の特性にあわせた工夫が必要とされ、一つひとつの手作業が、那智黒石の輝きの秘訣なのです。
粉末にした那智黒石に樹脂を混合し、いろいろな形に成型した那智黒成型品は、「ニュー那智黒」と呼ばれ、原石の彫刻では難しい複雑な形を重厚感や輝きを失うことなく、同じ商品を均一に作れることが長所です。
最近ではパワーストーンとして注目を集め、エステストーンやストラップ、お香立て、八咫烏の置物など今のニーズにあった商品を世に送り出しています。
3市木木綿[御浜町]三重県指定伝統工芸品
縦縞のデザインが特徴的で、使い込むほどに肌になじむやわらかい風合いが人気の市木木綿。
世界遺産・熊野古道浜街道沿いの市木地区で明治時代に始まり、最盛期には45軒もの織元があったようです。
海岸近くに山が迫る市木地区は、高潮の被害に悩まされ、田畑の耕作に向かない寒村そのものでした。
明治時代中頃に大久保万太郎という人物が大和地方から機織りの技術を取り入れ、藍の栽培を始めます。
村の生き残りをかけ、何度も実験を重ねて、ご当地木綿が誕生。
もんぺなどの作業着として人気を集め、大和や吉野へも出荷し、最盛期には村中の人が携わる産業にまで成長しましたが、戦後になって化学繊維の時代が到来。
藍染めの木綿は大量生産に押され、織元も次第に減っていき、昭和末期にはたったの2軒。そのうちの1軒が大畑織物工場でした。
現在、唯一の織元が向井浩高さんです。
向井さんは熊野市木本町にある「向井ふとん店」の三代目。
店には市木木綿の布団をはじめ、名刺入れやペットボトルホルダーなど、使い勝手のよいアイテムが並びます。
最初は布団のための生地を、大畑織物工場から分けてもらっていたとのことですが、大畑さんが高齢のため止めることとなり、市木木綿の伝統が消えてしまうのは勿体ないと、向井さんが工場の利用を申し出てたことが織元となった経緯です。
市木にある工場で、ベルト式のモーターによって動く機織り機が、カッシャン、カッシャンと音を響かせます。機械といえども織る速度は手織りの4倍程度。
そのため手作業に近い柔らかな風合いが残り、丈夫で通気性のよい木綿ができあがります。
その風合いの秘密は最高級の「単糸」を使うこと。
工程に耐えられるよう、単糸を糊付けしてから作業をしますが、洗うほどに滑らかになり「もんぺにはこれが一番」と履き続ける人もいて、布団の生地にはこの上ない心地よさ。
大正レトロ・昭和レトロを思わせる柄をはじめ、無地やボーダー柄などモダンなデザインも展開されています。